ただ、なんとなくピザが食べたくなった。
たったそれだけの単純な理由で、オーベックは駅前のイタリアンに足を運んだ。バカみたいに暑い夏の真昼間だった。八月の日差しは地面を焼き尽くし、人々は皆疲れた顔で汗をかいていた。
ドアを開けると、ちょうどランチの時間だというのに店内はひっそりとしていた。もしや、まだ開店していないのではないかと思ったが、奥から快活そうな店員がやってきて、彼を席へと案内した。
長居させる気が全く感じられない硬い木の椅子に腰掛け、ランチメニューを眺める。オーソドックスなイタリアン料理がそこには並んでいた。
食べたいものは大体決まっていた。この店では名物だというマルゲリータとドリンク、セットにつけるとお得だという前菜を注文すると、店員は奥に引っ込んでいった。
平日の駅前は、やけに静かだった。大きな窓からは、電車が踏切を通り過ぎる様子と、バスがターミナルに向かって走っているのが見える。店内に響く嫌に陽気なラテンミュージックが虚しく感じられた。他の店は昼休みのサラリーマンや、主婦で埋め尽くされているのに、ここだけがまるで存在していないかのように、ひっそりとしていた。
店員は、暇で仕方ないのか店内の掃除と補充を始めた。長い髪の店員と、まだ大学生くらいの女性の店員が、レジをいじったり、机を拭いたりと、暇を誤魔化すために必死に動いていた。
「こちらセットの前菜になりまーす」
先ほどの二人ではない店員が、厨房の方からサラダを運んできた。生ハムやナスのトマトソース炒めなどを眺めていると、なんとなく懐かしいような、どこかでこの声を聞いたことのあるような気がして、顔を上げた。
「……」
若い男の店員は、白い調理服を着て、目の前の前菜について事細かに説明してくれている。
──どこかで、この顔を見たことがある。オーベックは頭の中の記憶を総浚いして、この顔の類似例を探し当てようとしていた。
が、
「アッ! もしかしてオーベック先生っすか!」
向こうの方が先に気がついたようだった。
「! そうだが……」
「俺、先生に教えてもらってた! 中学の時!」
パズルのピースがピタリと嵌まるように、記憶の中にある名簿と目の前の男が一致した。
「アシュレイ!」
「覚えててくれたんですね〜!」
人の良さそうな笑みを浮かべる店員は、かつてオーベックが塾講師のアルバイトをしていた時に受け持っていた生徒だった。
思いがけない出会いに、気だるげだった気分が吹き飛んだ。
目の前でニコニコと笑うアシュレイは、数年前と違って背がグッと伸びていた。それこそ、オーベックよりも高いのではないかと思うほどに。
「お前、前は学ランしか着てなかったから、最初は分からなかったぞ」
「今この店でバイトしてるんスよ」
「へえ……もうそんな歳か」
あの時──昔のことのように感じられるが、教え子の成長を見ることができて、オーベックは感慨深い気持ちになった。
「ってか俺、超うまいピザ作るんで! 楽しみにしててくださいねっ!」
「ああ、期待してるぜ」
走るように厨房へと消えていったアシュレイの背中を見て、あまりにも大きくなったので驚いた。中学生の頃は、まだまだ子供らしい、可愛らしい身長だったのに、今ではもう大人に見間違えるほど立派な背丈に変化していた。
もう、そんなに時間が経っているのか。
すでにオーベックの周りの人間は皆就職をして、社会に出ていた。
彼は大学院にそのまま内部進学したので、いまだに収入はアルバイトに依存している。学部生時代に勤めていた個人経営の塾を辞めて、現在は大学で助手の仕事に勤しんでいた。
つまり、大学の外とはほぼ関わらずに過ごしていることになる。
自分の専門分野をとことん突き詰めているので、ある意味幸せなのだが、時折自分がひどく視野の狭い偏屈な人間になっているのではないか、と不安に陥ることもある。
ピザの生地を器用にくるくると回すアシュレイを見て、少し羨ましいと感じた。羨ましい、というよりも、眩しいと形容した方がふさわしいかもしれない。
高校生という貴重な時間を、真っ直ぐに見つめているように見えた。実際、アシュレイは楽しそうに働いていた。
「せーんせっ! 焼けましたよ」
そんな風に愛想を振り撒きながら、アシュレイは大きなマルゲリータを自慢げに差し出した。
「おお……これは……」
「大きいでしょ?」
「そう……だな」
「食べきれなかったら包んであげますからね」
半径二十センチはあるのではないか? と思うほどの巨大なピザが、テーブルを埋め尽くして、オーベックの目の前に現れた。
チーズとバジルとトマトソースが、焼かれた生地の上で美味しそうにキラキラと光っている。確かに、ものすごく美味しそうなのだ。
けれど、この量は明らかに一人分ではない。
シェアすることを前提としているのではないか? とアシュレイの目に訴えかけたが、向こうは何を勘違いしたのか、それともわざと気づかないふりをしているのか、
「切り分ける用のカッター、ここに置いておきますね」
と言って、そそくさと厨房に戻っていた。
残されてしまった。
とりあえず、ピザカッターで均等に──八等分してみる。生地をザクザクと切り分け、取り皿に取り分ける。
手でミミの部分に触れると、まだ熱かった。触れればすぐさま火傷するほどではないが、出来立てなので慎重に食べた方が賢明だろう。
トマトソースと、モッツァレラが机のこぼれそうだった。口に運ぶ途中でバジルが皿の上に落っこちた。
ついに、ピザが口の中に飛び込んできた。やはり、熱い。口に含むと、トマトの新鮮な香りと、バジルの香ばしさ、ピザ生地のパリパリとした食感が舌を刺激した。
次々と、手が伸びた。
モッツァレラは他のチーズと違って、山ほどかかっていてもしつこい感じがしなかったし、トマトソースは中途半端に潰してある──おそらく自家製──ので、口当たりが面白かった。バジルはアクセントになって、味に飽きがこないようになっている。
これほど大きいピザも、あっという間に半分平らげてしまった。
それでも、まだまだ胃袋には余裕がある。
チェーンのピザ屋のように、アメリカ風の分厚い生地ではなく、本場の薄い生地のピザだから、全然腹に収まってしまうのだと気づいた。
一枚、また一枚と平らげてしまう。
数十分の格闘のすえ、とうとう丸々一個のピザが胃に収まってしまった。
「……」
食後のコーヒーを飲みながら、オーベックは他の客の注文でまた動き出した厨房をぼうっと眺めた。
まさか、アレにここまで料理の才能があったとは、全く想定外だった。
個別指導塾で初めて出会い、勉強を見てやった時はそこまで強い印象を抱いていなかった。そこそこ勉強のできる手のかからない生徒。それくらいだった。
向こうはなぜか、なんの面白味もない教師に対して興味津々で、大学は面白いか、趣味は何かとやけに深掘りしてきたのを覚えている。
夏期講習で、分厚い参考書と悲鳴をあげながら格闘している様子が記憶に新しい。その当時は、本当に垢抜けない中学生という感じだった。それが今や、ぐっと大人っぽくなってしまっていた。
あの頃の可愛げは面影として残っているが、垢抜けて都会の男子高校生に変化している。さぞかし女子生徒から人気があることだろう。
……俺は何を考えているんだ。
ここまで思考が巡って、急に冷静になった。我に返ると、ただの元教え子の近況にここまで思いを馳せるのは、馬鹿馬鹿しいことに思えてきた。
ここにいては、いつまで経ってもそんなことばかり考えてしまいそうだ。
そう思って、伝票をつかみ、レジまで持っていった。幸い、対応してくれたのは先ほど席まで案内してくれた女性の店員だった。
レシートと一緒に、ポイントカードを手渡された。スタンプが貯まると、ドリンクのサービスがどうたら、何パーセントか割引になるらしいなどと、それらしい説明をされたが、もう二度と行く気にはなれなかった。
確かに、ピザは思わず舌を巻くほど美味しかったが、自分の知り合いがいる店には行きたくないというのが本音だ。
ポイントカードとレシートを財布にねじ込み、最後に厨房でピザ窯の調整をしているアシュレイの姿を一瞥してから店をでた。外はちょうど一番日差しが照りつける時間帯で、それでも人は大勢いた。先ほどの光景が嘘のように、人だかりが復活していた。
学生が多かった。今は夏休みだったということを思い出した。
大学院も前期が終了し、現在は休暇に入っているが、それでも大学でやることはあった。研究室に定期的に足を運んでいるので、休みという感覚は薄い。それに、助手の代わりに家庭教師の短期アルバイトをこなしている。
休みらしいことは、それこそ映画を見たり、少し足を伸ばして遠くの大きな図書館に行ってみたり、とありふれたことしかしていない。友達がいないわけではないが、関係は薄い。夏祭りや、花火大会などの各種イベントは、人が多すぎて行く気が湧かない。
つまり、薄っぺらい夏休みなのだ。
だから、アシュレイを見ていて少し辛くなってしまったのかもしれない。
駅前の駐輪所に停めていた自転車に乗り、アパートに戻る。その途中で、コンビニでアイスでもなんでも買えばいい。
もうすぐ花火大会だと知らせる広告が貼られていた。川に近いせいで家賃の安い単身者向けアパートのベランダから、毎年花火が見えるのだった。
なんとなく、慢性的にそれだけは見るようにしていた。別に楽しみではない。ただ、それが夏という季節における儀式のように思えて、義務感に駆られるから。それだけの理由で。
冷房の効いたスーパーに入ると、店の外の湿度が嘘のように思えてしまった。
長期の休みくらいしかまともに自炊をしないので、スーパーのカートを押して店内をうろつくのは久しぶりだった。
夕方のスーパーには、多様多種な年齢の労働者、主婦がうろついていた。買うものが決まっていたので、いつものように冷凍食品とパン、消耗していた調味料などを買い物カゴに放り込む。タイムセールで安くなった肉を買うか迷っていると、後ろから声をかけられた。
「せーんせっ、こんばんは」
振り向くと、アシュレイがカゴを持って立っていた。Tシャツにジーンズという極めてラフな格好は、オーベックと似たり寄ったりである。
こんな場所で知り合いと遭遇するとは思っていなかったので、狼狽えた。今まで、普段の生活圏で生徒と鉢合わせることはなかった。
ここはそこそこの都会で、ちょっと買い物に出かけたくらいで知っている誰かと一緒になるということは、ほぼありえないからだ。
「夕飯の買い物か?」
「まあ、そうっすね。ってか先生も自炊するタイプなんですか? 結構買ってますけど」
「そういうお前も」
「俺は飯自分で作るんで」
「その年で? 偉いじゃないか」
「あー、ウチの親、仕事で夜いないんで」
普段は店で賄い食うんですけど、今日バイトないんですよね。と続けながら、アシュレイはポイポイとミンチやモモ肉をかごに詰め込んでいく。
「ってかここの肉、国産でマジうまいんで買った方がいいっすよ。ここに来るってことは知ってると思うんですけど」
「……そうだな」
野菜炒めにでもすればいいか、とオーベックも豚バラ肉をカゴに入れた。
「つーかここくるってことは、先生ン家も近くなんですか?」
「……まあ、そうなるな」
そう言うと、なぜかアシュレイは嬉しそうな顔をして、オーベックのそばに近寄ってきた。
「俺も、ここから近いんで! もしかしたらまた会えるかもしれないですね」
「ああ、まあな」
買い物客の邪魔な位置に立っているので、早く会話を終わらせたかった。アシュレイは綺麗な瞳を二つ輝かせて、オーベックを見ている。ただの元教師の情報に、どうしてそこまで喜んでいるのか、全く理解できなかった。
実際に指導していた時、そこまで懐かれていたわけではなかった。どうして、今になってこんなことになっているのだろう。
「卵のタイムセールが開始されます! おひとりさま一パックまでとさせていただきます!」
店内放送を聞きつけて、アシュレイは照れているような、焦ってもいるような表情を浮かべ、急にモジモジし始めた。
「タイムセールだろ? 行ってこいよ」
「! じゃ、じゃあ失礼します!」
「……またな」
何度もお辞儀をしながら、少年は店の奥へと早歩きで消えていく。まるで戦場のような、向こうに見える大群に入り込める気がしなくて、オーベックはレジへと向かった。
自転車のカゴに荷物を詰めて、家までの道を走っている途中でふとアシュレイの顔が浮かんだ。かつての生徒と二度も会うことがあるなど、そんな偶然もあるのかと思った。別に後ろめたいことは何もないが、ただなんとなく、ここまで絡んでくることに違和感を覚えている。オーベックは、生徒に友達扱いされるタイプではなかった。ここまで楽しげに話しかけてこられたのは、初めてのことだった。
そんな考えも、夕飯の献立を考えているうちに消えてしまった。ただ、手元にある食材をどう始末するか。たったそれだけの思考の隙に、アシュレイは消えていった。
横殴りの雨がアパートの窓を打ち付けている。テレビから、台風の通過する様子を報道する中継が流れていた。骨董品のようなエアコンがガタガタと音をたて、冷気を部屋に送っていた。
低気圧で体が重く感じる。窓辺から外の様子を見下ろしながら、土砂降りの雨の音に耳を傾ける。
きっとこの様子なら、今度の花火大会の開催は危ういだろう。
川が氾濫でも起こしそうな勢いで流れている。今、外に出るやつはバカだ。そんなことを考えながら、外を見ていた。
「……は?」
吹き付ける風に逆らうように、必死に自転車を押す人影が見えた。
風に吹かれてレインコートのフードが外れ、顔がはっきりと見えるようになった。その相貌は、オーベックの知っている顔だった。
「あいつ……馬鹿か!?」
雨に打たれ、それでもどこかに向かって歩く。その足取りは不安定で、見ていて不安を覚えるほどだった。
思わずオーベックは窓を開け、叫んだ。
「アシュレイ!」
声にきづいて、彼は足を止め、上を見た。
部屋着のオーベックが自分を呼んで、叫んでいる。その事実をうまく飲み込むことができず、一瞬体が硬直した。が、
「何してるんだ! 上がってこい!」
その声を聞くや否や、方向を変え、アパートの駐輪スペースの端に遠慮がちにママチャリを立て掛けた。
オーベックはバスタオルを引っ張り出し、急いで階段を駆け降りた。
濡れ鼠になってしまったアシュレイは、半ば放心状態で白い柔らかなタオルに身を巻かれていた。ずぶ濡れの制服はもはや衣服としての意味をなしておらず、肌に無意味に引っ付いているだけだった。
「……あ、ありがとうございます」
「……シャワーだけでも浴びていけ。風邪ひくぞ」
ドアの前でボケっと突っ立ったままのアシュレイに、扉を開けて中に入るよう促す。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
彼は遠慮がちにそう言うと、ぐしょぐしょに濡れたスニーカーを揃えて脱ぎ、オーベックの私室に足を踏み入れた。
箪笥の中から適当に部屋着を出し、タオルと一緒に押しつけると、アシュレイはなんとも言えない、微妙な表情を浮かべたが、すぐに脱衣所の中に入って行った。
──勢いで部屋に上げてしまった。
自分なりの親切心でそうしたつもりだったが、客観的に見れば、事案と言っても差し支えのない行為である。自分のしでかしたことの重大さに気がつき、頭が痛くなった。相手は同性とはいえ、未成年である。余計な手出しだったのではないか。冷や汗が止まらなくなる。
部屋の中には、暴力的なほどの激しさで打ち付けてくる雨の音と、シャワーの水音だけがわずかに響いている。
先ほど、アシュレイが着替えの服を受け取った時の神妙な表情。それが目に焼き付いて離れない。あいつは、どういう気持ちで年上の男の服を受け取ったのだろう。単なる親切心でも、相手の迷惑になり得ることもある。
別に、感謝して欲しい訳ではなかったが、少なくとも、たった一つの失態で嫌われたくはなかった。
「お風呂、ありがとうございました」
シャワーを浴び終えたアシュレイが、脱衣所からリビングに出てくると、改めてオーベックは背筋を正した。アシュレイは、ゆっくりとソファに腰を下ろし、眼前のオーベックを見つめた。
「温まったか」
「はい、それなりには」
「雨が落ち着いたら帰るといい」
「それだと、今日は帰れなくなるんじゃないんですかね」
吐き捨てるような、不機嫌な声色だった。かつての生徒が、どう考えているのかオーベックには少しも理解できなかった。少し冷ややかな視線が突き刺さる。スーパーで会った時とは全く感触が異なって見えた。まるで、別人のようにすら思えた。
「一晩中、ザアザア降ってますよ。きっと」
窓の外を見上げて、アシュレイはため息をついた。そして、足を組み、鬱陶しそうに濡れた髪をかき上げた。
「……ドライヤー貸してもらえます?」
「洗面台の下だ」
ドアを開けっぱなしにしていたので、彼が髪を乾かすところを見ることができた。胸あたりまで伸ばされた髪が熱風に煽られて、蛍光灯の光を反射して、鈍く光っていた。
アシュレイの背格好はおおよそ男性的であったが、後ろ姿だけ見れば、背の高い女性にも見えた。初対面のとき、あの頃彼は成長期の真っ盛りで、声も高く、そのうえ髪も今のように伸ばしていたので、少女に間違えたことを覚えている。そんなことをわざわざ伝えたりはしなかったけれど、本当に時の流れというものは、いとも容易く人間の見目を変えてしまうものなのだと、オーベックは実感した。
「先生」
視線に気づいたのか、アシュレイは背後を振り返り、オーベックの顔を見つめた。
思わず、体がこわばる。
「キッチン借りていいですか」
「……は?」
台所に、他人が立っている。
これほど見慣れない風景というものがあるだろうか。
オーベックはリビングのテーブルに肩肘をつき、テキパキと動くアシュレイの背中を見守っていた。
単身者向けの小さな部屋の、猫の額のようなシンクの前で、アシュレイは器用に動き回り、プロの家政婦のような俊敏さをもって、冷蔵庫の余り物を家庭料理へと変身させていった。
キッチンを使う理由は単に「お腹が空いたから」であり、それ以上に高尚な理由など、ないと言う。
──シンクに洗い物を溜めていなくてよかった。みっともないところを、見られたくなかった。
ラタトゥイユに、カボチャの煮物、鳥もも肉の炒め物。それらを手際よく作り、食卓に並べる。
「先生、普段は料理しないんですか?」
冷蔵庫を無許可でこじ開け、中を見てひどい表情をしてそう言ったことも、この際水に流そう。
夕飯にはまだ少し早い時間だったが、それらはひどく食欲を誘う匂いと色をしていた。
「どーぞ、食べてください」
「これ全部、お前が」
「じゃあ他に誰が作るって言うんですか」
「……」
じっと見つめられて、食べ難い。
「なあ、お前は食べないのか」
「…………まあ、食べますけど」
大皿に盛られた料理を小鉢に取り分けると、アシュレイは割り箸を二つに割り、自分の作った料理をゆっくりと口に運んだ。
「美味いな。才能あるんじゃないか?」
「仕事で作ってるんで」
アシュレイは、再び不機嫌な表情を浮かべたまま、無言で、機械的に料理を口に運ぶ。
「──何かあったのか」
オーベックの言葉を聞き、アシュレイは一瞬目を見開いた。視線を斜め下にそらして、気まずそうにつぶやく。
「別に……」
それが本心でないことはすぐにわかった。
オーベックとて、この問題に深く突っ込む義理がないことはわかっていた。けれど、硬化した態度を取られると、非常にやりにくいのだ。
文句のつけようのない手料理も、半分以上胃におさまってしまった。
こんな状況でなければ、楽しい食事会になっていたかもしれない。
アシュレイは仏頂面のまま、淡々と目の前の料理を食べ続ける。それを見つめていると、わずかに目があった。深緑色の瞳は、オーベックの姿を映している。数年前とは違う光が差していた。
「覚えてるか? お前が中学生の時に話してくれたことを。料理人になりたいんだろ? 勉強は進んでるのか」
「…………」
脳内には、丈の合わない学ランを着て塾にやってくるアシュレイの姿が浮かんでいた。今ではすっかり大きくなって、小洒落たブレザーの制服を着ているが、少し前まで、ほんの小さな子供だったのだ。
「教え子の手料理を食うことになるなんて、昔の俺に言ったら驚くぜ。なんだっけ、バイトして家にピザ窯置くんだろ?」
「懐かしい話をするんですね」
「いいだろ、せっかくなんだ」
「俺の話なんてしても」
「聞きたいんだ、色々とな」
アシュレイは目を伏せて、テーブルの上に並べられた空の皿を見つめた。
薄く開いた唇から、言葉がぽつりとこぼれ落ちるのを、オーベックは待っていた。
二人の間に沈黙が続いた。沈黙は静寂を生み、凪いだ海のような静けさが広がった。見つめあっていると、突然電気が点滅し、停電した。
暴風警報と大雨警報が発令されたこの環境下だったので、なんらおかしいことではない。
「あっ」
おそらく、ここら一帯に住まう人々は同じように声を上げただろう。
「雷っすかね」
「そうかもな」
あくまで二人は冷静だった。シンクに水を溜めておいてよかった、とアシュレイは思った。
オーベックが立ち上がり、懐中電灯を探している間、アシュレイはシンクに空いた皿を投げ込んだ。そして、カーテンの隙間から外を見た。
普段なら家々の窓から漏れる光で満ちるはずの住宅街は、闇に包まれている。まるで原始に戻ったかのように思えた。
「あー、電池……」
引き出しという引き出しを開けて単三電池を探すオーベックを横目に、アシュレイはソファに座り、沈むクッションに身を委ねた。
久方ぶりに再開したオーベックは自分とは違い、全く変わっていなかった。少し痩せたのかもしれないけれど、さほど印象に違いはない。
会えて嬉しかった。向こうもそうであってほしいと願うが、確証はない。向こうとこちらとでは、嬉しいのニュアンスが異なるのだということを、アシュレイは知っている。
何年間も、思い出しては繰り返し、顔を思い浮かべていた。再会する時を願ってはいたが、ベストなプランではなかったように思う。実際、今も自分は意地を張って八つ当たりをしてしまっている。
ただのわがままだ。
花火大会を、この部屋から見たかった。それが叶うかもしれなかったのに、事態はそう上手く運ばない。だから、苛立って仕方なかった。自転車で徘徊している最中で、思わぬ幸運に預かったが、想定とは全く異なったのだ。
オーベックは机の上に懐中電灯を置くと、アシュレイの隣に座った。
「早く戻ればいいんだが」
「そうですね」
雨が激しく打ち付けているので、冷房が止まっていても大して暑くなかった。
だが、アシュレイは自分の内側から熱が燃え広がる感覚を覚えた。胸が高鳴り、少々予想外ではあったが、この部屋に上がり込むことができた事実に震えた。
本来ならば、なんとか理由をつけて部屋に入り、今日この日に二人きりで花火を見ることが最終目標だったのだが、台風という大きな誤算があり、しかも文化祭の準備が思ったよりも長引いてしまったため、苛立っていた。同級生の保護者が出してくれると言った車に乗ることも断り、やけくそで自転車を漕いでいたらパンクした。運よくオーベックが拾い上げてくれなければどうなっていたか、想像するだけでゾッとする。
自分の不甲斐なさにも少々苛立っていたが、今この機会を逃しては、二人の間に進展はないのではないかという焦りから、素直になることに決めた。
「……先生」
アシュレイはそっと、オーベックの手を握った。
あくまでスキンシップだとでもいうように。
ちらりとオーベックの横顔に目をやると、少し緊張して、顔の筋肉がこわばっているように見えた。
「ちょっとだけ、寒いかもしれないです」
「…………毛布でも取ってくるか」
「それはいいです」
初めて触れた男の手は、骨張ってはいるが触れると絹のように柔らかく、熱を感じた。淡い桜色をした爪も相まって、少し女性的な印象すら受けたが、しばらく触っているとところどころでペンだこのあとであろう、皮膚の硬い部分も見つかった。
自分が触れた先から体温が上がっていくのが愉快だと、アシュレイは感じた。
「……綺麗な手ですね」
自分より少し小さい元教師の顔を覗き込むと、非常に混乱している様子が見てとれた。
「大丈夫ですよ、別に取って食いなんてしませんから」
「お前、俺を犯罪者にしたいのか」
口説いている最中に、大真面目な声でそんなことを言われてしまったので、アシュレイは思わず吹き出してしまった。
「おい! こっちは真面目に」
「俺がいやらしい触り方をしてるって? 心外ですね……っていうか、本気で嫌なら抵抗してくださいよ。手を触ってるだけじゃないですか」
自分でも、よくはないことだと存分にわかっていた。けれど、数年間の我慢を抑えることができず、延々とベタベタ触り続けてしまう。
「…………」
オーベックは、突然の暴走に困惑しながらも、目を閉じ必死に耐えていた。それを都合よく解釈しようとしたアシュレイによって、もはやスキンシップなどという言葉では済まされないのではないかというほど、恋人のように密着してしまっていた。
「…………アシュレイ、それ以上は」
とうとう耐えきれず、オーベックはアシュレイの手首を掴んだ。
アシュレイは捕まれた手首とオーベックの顔を交互に見比べ、自分のしでかしたことの重大さを実感した。あ、と声を上げて少し距離をとる。
目の前には、顔を真っ赤にしたオーベック。アシュレイ自身も顔の温度がグッと上がったのがわかった。自分も、同じような顔をしているのだろう。
「………………すみません」
「…………謝るくらいなら、最初からやるなよ」
「はい……おっしゃる通りです」
冷静になると、頭に冷水をかけられたような気持ちになった。許しを乞うべく、頭を下げ続けていると、情けないやら馬鹿馬鹿しいやらで、今すぐ消え去りたくなった。
「アシュレイ」
ずっと長い間同じ姿勢のままのアシュレイを気遣い、オーベックは声をかけた。 ゆっくりと顔を持ち上げたアシュレイの表情は、今まで見たことのないような歪なものだった。
「寂しかったのか?」
まるで、保育士に慰められる子供みたいだった。
恥ずかしい。情けない。
そんな気持ちで胸が痛んだ。
オーベックは、アシュレイのしでかした暴走に理由を見つけようと、カウンセラーのように寄り添っているのだ。
向こうはアシュレイの気持ちなど何一つとして理解していないし、理解されたくもない。好きだ、と一言言ってしまえば全てが崩落するような気がした。
「そんな、ガキじゃあるまいし……」
ストレスによって引き起こされる一種のヒステリーです。とでも解釈してくれれば楽だろう。
「俺からしたら、お前はずっと小さな生徒だよ」
後日、アシュレイは洗濯した着替えを手にオーベックの家に向かった。連絡先も何も渡していなかったので、突然な来訪に驚きを隠せなかった。
「俺が在宅じゃなかったらどうするつもりだったのか」
と尋ねると、
「家に戻ってくるまで待ちます」
と返された。
あまりにもムキになって言われてしまったので、それ以上何も言えなかった。
先日とは違い、少し日に焼けて野生的な表情になったアシュレイは、勝手に部屋に上がり込むと、有無を言わせる隙を与える間も無く冷蔵庫を開け、その中を一瞥するとすぐさま顔を顰めた。
「前から思ってたんですけど、これでよく自炊してますね」
勝手に上がり込んでは憐れむような視線を投げかけられ、オーベックは言い返そうとしたが、次に続く言葉を聞いて呆気に取られた。
「しょうがないから俺が作りにきてあげますよ」
「は……?」
まるで好意に甘えろと言わんばかりにアシュレイはふんぞりかえる。
「ってか、大人なのに子供の俺よりお粗末な食生活してるとか、恥ずかしくないんですか? 茶色い食事ばっかしてません? 俺ならもっと彩豊かに作れるのに」
腕を組み、まんざらでもないように早口で喋るアシュレイを見て、胃がキリキリと痛み出した。
「ってことで、合鍵ください」
「断る!」
「声でっか〜、近所迷惑っすよ」
騒いでないでさっさと鍵をよこせ、とふんぞり返るアシュレイの顔と、中学生時代の可愛らしい少女のような少年の顔が同時に脳内に現れる。
オーベックには、どうしてこのようなことになっているのか全く理解できなかった。無理やり部屋から押し出すと、ドア越しに「また金曜にタッパー持ってくるんで、受け取ってくださいね!」と叫ぶ声が聞こえてきた。
聞こえないふりをしたが、あの生徒なら本気でやりかねないと感じ、思わずため息をつく。
返しにきた服と一緒に置かれた弁当箱の中には、渾身の手料理が二段重に詰め込まれていた。一口、ピックが刺さった卵焼きを口に入れると、思わず顔が綻ぶ。 どうやら、してやられてしまったらしい。