河川敷沿いを、僕は自転車を押して歩いている。頭上には三日月が浮かんでいて、星は見えない。
 今年の夏は、珍しく涼しい風が吹いて、近年の異常気象との関係性が、専門家の間で議論されているらしかった。
 対岸には集合住宅の棟が群れをなして並んでいて、その奥には小学校、もっといけば大型の商業施設がある。僕のいる方は大学に近く、学生向けのアパートや、家族連れの多い普通の住宅街だった。自転車のカゴに突っ込まれたコンビニ弁当と、ドラックストアの安っぽい蛍光色の袋は、そんな閑静な街並みから浮ついているように思えて、少しだけ居心地が悪い。
 普通なら息苦しく、生暖かい風が吹いているはずなのに、今日は上着が欲しいくらいに涼しい日だった。そう。こんな夜だからと言って何かが変わるわけでもなく、普段通りに、明かりが漏れた家々の間を、隠れるように進んでいくしかない。月はいつまでも僕を追いかけてくる。詩人めいた言い回しで、小難しい言葉を使えば少しは賢くみられるだろうか。もう、子供は寝る時間だ。僕は子供ではないので、起きている。
 駅から徒歩十分、四畳一間の安アパートが僕の根城だ。初めて見たときはあまりの古さに絶句したが、住めば都とはそのことで、今ではすっかり馴染んでしまっている。住民は、何をしているのかわからない貧乏学生ばかりで、僕のような外国人がいても,好奇の目にさらされるということはなかった。風呂・トイレ別で駅からは徒歩圏内。それでこれだったら結構手頃な値段だと思う。もしかしたら、ワケあり物件ってやつかもしれないけど、今のところ、住むのに不自由はないからいいのだ。
 靴を脱いで居間に上がると、テレビをつけっぱなしで光くんが眠っていた。お腹を出して寝たら風邪を引くよ、なんてお節介なことを考える。投げっぱなしになっているブランケットを、お腹に掛けてあげた。液晶画面で喋くっているのはどこかの芸能人で、早口で喋ってはお茶の間の笑いを誘発している。さて、夕食にありつくとしよう。
 冷蔵庫の中の麦茶と、値引きシールの貼られたのり弁当をテーブルに並べ、静かに夕食を食べ始めた。つけっぱなしになっていたテレビの電源を落として、暗い中で響くのは光くんの寝息だけ。箸でちくわをつまんで、口に運んだ。感想。冷めていて、味が濃くて、変な匂いがする。歯ですり潰すように飲み込んで、海苔で覆われた白米も一緒にかき込む。氷が溶けて少し薄くなった麦茶は汗をかいていた。白身魚のフライ、タルタルソース、工場製の濃い味がする。昔は、一人でなんでもできると思っていた。
 僕の母は料理上手な人で、当然息子の僕もそうだと思っていた。母にできることは僕にもできる、そういった思い込みが僕を堕落へと導いた。
 工業製品で囲まれ、サナトリウムじみた生への気怠さに包まれたこの部屋では、僕の咀嚼音と光くんの寝息だけが響いている。まずくも美味しくもない弁当を完食すると、プラスチックの容器を流しに突っ込んだ。僕がシャワーを浴び終わって、布団を敷く間も、光くんは、幸せそうな間抜けヅラでずっと眠っていた。
 正直に言おう。彼が羨ましい。将来のことなど知ったこっちゃないとばかりに爆睡し、いつもヘラヘラと曖昧な態度をとり続け、恐ろしく肝が座っているのか、何事にも動じない彼が、羨ましい。僕がこんな風に思っていることも知らずに、この家に転がり込んできて、我が物顔で居座っているのだろうか。ただ、その滞在を許してしまっている甘ちゃんの自分がいることも事実であり、誰が悪いのかと問われると微妙なところである。
 考え事をするためには、あるものが必要だ。ライターの炎に導かれるように、煙草の先っぽからもくもくと煙が上がってきた。そのままベランダに出ると、煙の行先が夜空に溶けていく。それをずっと、眺めていた。

 次の日、光くんは昼になっても起きなかった。ここで無理に起こす必要はない。前日の夕方から寝ているのに、ずっと目を覚まさずに快眠できているのはある意味羨ましいことだ。雑誌や紙屑の隙間に、体を収めるようにして座る。足場なんてない。全く片付いていない、まるでゴミ屋敷みたいな僕らの部屋だが、一応の秩序というものは存在する。太陽は僕らの真上。外に出る気分じゃなかった。
 うう、と畳の上で光くんは唸った。どんな夢を見ているんだろう。静かなのは落ち着かないので、テレビをつけた。回る扇風機の音と一緒に、火山のマグマが蠢く映像が流れている。まるで生きもののように、それは山を滑り落ちた。深海の軟体生物みたいな動きが面白かった。扇風機の風を独り占めしていると、暑さに耐え切れなくなったのか、光くんがのそのそと起き始めた。
「おはよう」
「あー、おはよう」
「昨日のきみ、すごい寝相だった」
「へぇ…………そうだったっけ」
どうして君はそんなに自由なんだ。何をしても覚えていないのだから、いい脳味噌をしている。カレンダーを見ると、今日の日付に赤い丸印が付けられていることに気づいた。
「光くん、今日は君のバイトの日じゃなかったかい?」
「あー、そうだっけ」
「起きて、行かないと」
 僕は彼の布団を畳んで、引き出しから着替えを出してやった。それなのに、彼は全く焦る様子もなく、のんびりと珈琲を淹れ始めた。
「店長のLINEブロックしてるから大丈夫だよ」
 何が大丈夫なんだろう。
 光くんはそのまま、アルバイトをやめた。
 僕はコンビニで働いていて、光くんは引越し会社でのバイトを辞めたから、今は僕しか働いていない。つまり、光くんは僕のヒモというわけだ。
「光くん、今日のお夕飯だよ」
「わー、唐揚げ?」
「うん」
「美味しそうだなぁ」
 僕がバイト先でもらってきた唐揚げを、光くんは美味しい美味しいと言って食べる。実はこれ、大して美味しくはない。冷めているし、安い油で揚げているので、口に入れると油の腐ったような変な味がする。とんだ馬鹿舌だ。それは子供がするようなあどけない表情で、幼くて愛らしいと思うけれど、目の前の彼は成人した大人である。
 もちろん、僕が彼に説教できる立場ではないのは百も承知のうえではあるが。しかし、これだけはどうしてもこのままではいけないと思うのだ。
「ねぇ、そろそろ学校に復帰したらどうだい?」
 これ以上無断で休むと、留年どころか退学だってあり得るだろう。光くんは本当に卒業・進級する気はあるのだろうか。学費ローンだって払わないといけないのに、何もしていない。得意のカメラも今は埃をかぶっている。
 僕は彼の才能に惚れ込んだのだから、写真を撮らない彼は僕にとって魅力のない人間ということにもなる。家に引きこもるか、近所を散策するしかない彼と、バイト漬けの留学生の僕。
 ゴッホとゴーギャンの同居とは似ても似つかない愚かな共同生活である。
「学校? あ、そっか。いかないと退学かぁ」
「光くん、そろそろ本気になった方がいいと思うよ。来週の月曜からでも出てみないかい?」
 呑気にあくびをして、僕の話を全く聞く気がないようだった。
「もう学校に行かないなら、出て行ってくれ」
 少しだけ冷たい声で言い放つと、光くんは動きを止めた。
「僕だって、この国に遊びにきたわけじゃないんだ。留学生なんだよ。君と意味のない同棲をして、お金だけをすり減らしにきたんじゃない」
 僕はそれだけ言うと、無性に腹が立ってきて、頭を冷やすために外に出た。腹の奥がムカムカして、頭がはちきれそうなほど、顔に体温が集まった。昼下がりだから、アスファルトに熱気が反射して、体をじりじりと炙られているような錯覚に陥る。着の身着のままで飛び出してきたから、財布はおろか携帯電話すらない。取りに戻ろうにも、気まずい以前に鍵がない。
 インターホンを鳴らして入れてもらおうなんて、ダサすぎる。クラクラする頭のまま、あてもなくふらふらと歩いていると、いつの間にか見慣れた道に出た。無心で彷徨っていたら、大学の正門まできてしまっていたらしい。
 今日は休日だから人は少ないが、サークル棟のほうには人がいた。とにかく冷房にあたりたくて、僕は普段行かないほうの道を進んだ。幽霊部員になって久しいが、部室の場所は変わっていなかったので、スムーズに進入することができた。
 鍵を失敬して、扉を開けると、自分が毎週顔を出していた頃と変わらないごちゃごちゃとした雑多な空間が広がっていた。奥には暗室があって、高価なカメラをしまうための金庫もそのままだった。カメラは部費で購入したから、共同財産だ。
 写真部は、僕が光くんと出会った最初の場所だから思い入れがある。今はアルバイトで忙しいのでなかなか顔を出せていない。光くんはそもそも学校に行かないので、もう欠番扱いだろう。僕が撮った写真は、残っているだろうか。一応部員だし、勝手に引き出しを開けても咎められることはないと信じたい。
 プリントした写真を集めたアルバムが、年代のラベルと共に棚に並べられていた。他のサークルの写真撮影のために駆り出されたりとか、そういうこともあったなぁ。二年次に初めて撮ったのは、桜の写真だった。日本に来たのは、それを撮るためでもある。僕は日本のノスタルジックでメランコリーな美しさに惹かれていた。
 桜はその象徴たるものであり、目標でもあったのだ。薄桃色の花びらは、触れれば溶けてしまいそうで、指先で触るのを躊躇ってしまう。風が吹けばはらはらと風に飛ばされ、花びらは川面や水溜りに落ちて、水面を通る風に身を預けてはゆっくりと水上で舞っている。桜の花は、日本人の哲学そのものだと思う。滅びや死の一抹に美しさを見出すのだ。ちゃんとフィルムカメラで撮って、印刷したからいい意味で時代を感じる。まぁ、撮ったのはほんの最近なんだけれど。
 光くんの写真も、もちろんその中に、僕のと一緒におさめられていた。僕はこれまでの人生のなかで、何枚もの写真を見てきた。きっと、同世代の誰よりも、僕はレンズごしにみる世界に魅了され、きっと呪われていたんだろう。垢抜けてもいないし、技法も何もない。そんな写真だけれど、僕は彼の作品が好きだった。好きだった、というより、メドゥーサに睨まれたように、目が離せなくなるのだ。
 それは、薬物依存症の患者のようで、いくら止めようと思っても簡単にやめれるようなものではない。僕は、取り憑かれている。彼の作品は、凡庸で、芸術性などなく、日常のありのままを、一般の人が美しいと思うものも、そうでないものも、「それ」をそのまま切り取っただけだった。観光客が世界遺産の建物を撮っている様を想像して欲しい。きっとそれが、光くんの写真そのものだ。大してすごくはない。むしろ普通なくらいだ。けれど、僕は凄まじいまでにそれに見入っていた。彼は化ける。そう確信した。きっと、そのままいけば、写真家ではないにしても、世界に名を残すようになるだろうと。
 写真サークルは小規模な集まりで、ある程度お互いを認識し、誰がどういう人間なのか全員が把握している集まりだ。毎週金曜の午後、部活棟に集まって、近所を散策しながら写真を撮る。週末には県外にも足を運び、季節の移り変わりを楽しみながらシャッターを切る。みんな真面目で、芸術にこだわりがあって、自分に拘っていた。
 光くんはその中で、アイデンティティーがない。これぽっちもない。何もない。何もしないし、何も主張しない。ただそこにいて、そのままの南光は、どこも見ていなかった。
 彼は天才だった。ある意味においての天才だった。透明であり、誰にも染まらない。僕は全てを故郷において、海を渡ってここまで来た。僕を形容する言葉、与えられた言葉、ラベリングする言葉は、ここには無数にあった。そもそも、光くんがなぜ写真をとり、ここにいて、何をしたいのか全くわからないのだ。
 無色透明で、何もわからない。ただお気楽で、主体性がなく、そのくせ写真を撮る姿に惹かれて、僕は悶絶した。これは僕が求めていた人間だ。正気でない僕は、彼を誘って二人暮らしを開始した。いつかは化ける「化け物」を腹の中で抱えて、どうしてこんなことになったんだと毎日繰り返し、それでもカメラすら持たなくなった光くんを、必死で抱えて生きている。
 彼の撮った桜は、僕のと違う。あれは、光くんの見た景色だ。僕には一生見れない。僕は光くんになれない。僕がまだ正気でいられているのは、彼と僕が違う人間であることを、僕が痛いほど理解してしまっているからだった。
 気付いたら、夕方になっていた。アルバムを全て元どおりに戻して、僕は部室をでた。
 明日は学校だ。課題のレポートをあと3000文字やって、スライドを作って、ああ、やることが多い。
 夏の熱気にあてられていたのか、足元がおぼつかない。夕方になると、セミの声が余計にうるさく聞こえた。校舎には誰もいない、静かなキャンパスは空虚な気持ちを加速させていく。
 日本の夏には、ホームシックじみたノスタルジーを発症させる効果があるようで、自販機で買ったコーラを飲み干すと、一日の疲れからか僕は奇妙な幻覚をみた。砂漠でさまよう遭難者が、蜃気楼にオアシスを見出すように、僕は狂ってしまったようだ。光くんが、僕の目の前に立っている。
「光くん…………」
 喉がかれて、ひどいかすれ声だった。
「遅いから」
 迎えに来てくれたのだろうか。そもそも、僕は大学にいくだなんて一言も告げずに出て行った。探してくれた? 彼が? 遅い時間と言われて、スマホの時計を確認したが、一人で出歩いて遅いと言われるような時間ではなかった。
 夏が見せた蜃気楼かと思った。
 その現実を受け入れられなくてしばらく呆然とした。
「帰ろうよ」
 ヨレヨレの、サイズのあっていないTシャツ、足には健康サンダルという非常にラフな格好で、光くんは僕を迎えに来た。少女の願望として挙げられがちな、王子様然とした清楚なものではなく、休日の中年男性のような適当な格好である。
「よく、場所がわかったね」
 僕が必死に言葉を捻り出すと、彼は一度うなずいた。…………なんだ、いこうと思えばいけるんじゃないか。僕が必死に説得して、どうにかしようとした努力は無駄だったのか。光くんはあっさり大学にきた。今日は授業も何もない休日ではあるが…………普段、近所の徒歩五分圏内でしか活動していない彼は、こうもあっさり大学に来れてしまったのだ。大学に行かなかったのは、ただ単に面倒だったからということだ。ふつふつと嫌な怒りが込み上げてきて、僕は腕をかきむしりたくて仕方ない。
 僕がいなくなっても、気づかないだろうと思っていた。いかにも一人でも平気ですなんて顔をしておいて、僕がいなくなったら迎えに来るのか。こういう時、いつもだったら寝て起きて、僕がいない部屋で一人シコってまた寝るんじゃないか。これだと、僕の方がまともじゃないと言われたようなもんだ。どうして、こういう時だけ普通の人間になるんだ。心の中のモヤがだんだんと大きくなっていく。これが最後の挑戦。もし、今が夢ならば、夢らしくあってほしい。そうでないのなら、終わりだ。
「明日から、学校行けそうかい」
「んー」
 考えるように、彼は頭をかいた。
「わかんない」この会話の後、僕の心は全て死んだ。

 それから、ずるずると僕らの同棲は続いた。
 あの夕暮れ以降、緩やかに衰退していく彼を、僕は実験動物をみる研究者のような冷静さで観察していた。
 全てのサナギが蝶になるわけではない。繭に閉じこもったまま死んでいく幼虫もいる。僕が愛した、愛すべき才能人は死んだ。
 彼に刺激を与えるミューズになることも叶わず、若者の青春を、唾棄すべき無駄な時間として浪費したことになる。
 僕は内心、怒っていた。恨むべき相手は、自分を含め全員呪った。そのあと、これは全てどうしようもないことだと気づいた。静かな怒りを彼にぶつけないように、平静を保とうと必死になった。光くんを反面教師にするかのように、学業に真面目に取り組み、模範的な留学生としての自分を演じきった。家では廃棄処分になった弁当を食い、奨学金の返済を考え、彼とは口もきかない。休日は外で一人過ごした。それなりに友人もいたし、やろうと思えば、なんでもできたと思う。しかし、僕はしなかった。
 それから幾月か過ぎて、彼は大学をやめ、僕と彼は一緒に住む理由もなくなる。僕はあと1ヶ月でこの国を去ることになっていた。毎日部屋を片付け、風呂をわかし、洗濯物を乾かしてやり、布団を敷いてやり、なんの得もないのに世話を焼いてやった彼は、まるで胎児のようにこの部屋で眠っている。彼は一生外に出ることないサナギであり、それは死んだようなものだ。可哀想に。
 これは僕のせいだし、彼自身の気質のせいでもある。思えば、彼は本当に写真が好きだったのかどうかすら疑わしい。色々と、認めたくなかったのだと思う。彼には才能以前に、写真を愛する心がなかったということを。彼の才能を伸ばそうと必死になって水を与えていたつもりで、彼を枯らしてしまっていたのだ。僕は南光のミューズではない。彼の魂の火は灯る以前に、点火する機会もなかったというわけだ。諦めてしまえば全てが楽になった。僕は箱の中の猫をみようとして失敗したらしい。最初から見えるはずのないものを見えると言い張り、おろかにもそれを主張した馬鹿ということだ。
 つまり、僕は光くんの、どうしようもないところだけを愛していた…………ので、彼女の出現に、悶絶して、胸を掻き毟りたくなった。僕は決定的な敗北者となり、世界中にありふれている傷心の若者の一人になった。
 たった一人の、突然現れた小さな女児に全てを任せておこう。きっと、光くんは僕のことなんて一度だって視界に入れたことがないから。ここであった思い出を、全て忘れる。誰にも話すことはないだろう。自分は特別な人間だということを認めて、故郷に戻り、学費ローンの返済について考えなくてはいけない。小さな後ろ姿を見送って、僕は空港へと向かった。