エアグルーヴは、腕時計を何度も睨みつけるように見つめた。約束の時間まであと五分。それなのに、サイレンススズカは未だ現れない。
(スズカのやつ、自主トレに必死で約束を忘れたか?)
景色が綺麗だからと門限を過ぎても走っていた彼女のことだ。それも有り得るか、と一人納得する。
駅前。少し歩けば小洒落たカフェや、若者向けの雑貨屋なんかが立ち並ぶアーケード街に行き着く。エアグルーヴが休日を使い、このような場所に赴いているのにはちょっとした理由があった。
(まさか、スズカが私を買い物に誘うなんてな)
年柄年中走ることしか脳にないあのサイレンススズカが、年頃の少女らしく服を買いに行きたいなどというなんて、全く想像の範疇になかった。しかも、その相手が彼女と同室のスペシャルウィークでもなく、エアグルーヴにだというのだからさらに驚きだ。
「エアグルーブだったら、色々教えてくれそうだなって思ったの」
ライバルであり友人である彼女にそんなふうに遊びに誘われて、嬉しくなかったわけではない。今度の日曜、駅前で待っててね。そう言われて、必死で今週中の生徒会業務を終わらせ、前日の夜には念入りにボディケアをした。尻尾と髪に高級オイルを塗り込み、顔にはパックを貼り、ルーティンであるマッサージの時間を少し増やした。久方ぶりにネイルをしようと、化粧ポーチの中からいくつかマニキュアを取り出した。ルームメイトが除光液の匂いを気にすると思ったので、窓を開けた。見事な満月だった。
エアグルーヴも浮かれていたのである。当日の朝、いつもより早起きして少し寮の近くを走り込むと、部屋に戻り、クローゼットの前にかけてあるよそ行きの服を確認した。
うっすらと涼しい季節になったが、紫外線は容赦しない。薄手の青いワンピースの上に、黒いカーディガンを羽織る。靴は少しヒールのついたパンプスを選び、それにも白い靴下を合わせた。左腕には、母親が入学祝いにくれたピンクゴールドの時計。鞄は服に合わせて、今流行りの大きなリボンのついた黒いショルダーバッグを。
我ながら完璧なコーディネートだ、とエアグルーヴは思う。スズカはきっと、いつも可愛らしいワンピースで来るだろうから、それに合わせて普段よりも少女趣味なコーディネートにしてみた。
鏡の前に座り、手慣れた手つきで下地、ファンデーション、頬には淡い色のチークをはたき、慎重にハイライトを入れた。まつ毛が綺麗にカールして、いつものアイシャドーと美しいコントラストを描く。
普段は練習ですぐ落ちてしまうこともあり、本当に最小限の化粧しかしていないのだが、久方ぶりにばっちりとフルメイクを施した。気のせいか、アイシャドーのキラキラとしたラメが、普段よりも輝いてみえる。
そうして学園から外に出たのが十五分前。指定された場所でサイレンススズカを待つエアグルーヴの頬を、北風が撫でた。
(もしかして、遅刻か?)
鞄からスマートフォンを取り出し、電話をかけようかとおもったその瞬間、遠くからエアグルーヴを呼ぶ声がした。
「ごめんなさい! 待ったかしら……」
サイレンススズカだった。走ってきたのか、長い髪は乱れ、首筋には汗が垂れている。珍しく、走るのに機能的ではないヒールのある靴を履いていた。次の模擬レースまでに足を挫かないか、勝手に心配する。
「いや、待ち合わせ時間には間に合っている」
「よかった……少し、走っているのに夢中になって」
矢張り、想像していた通りだった。思わず笑いたくなる顔を必死で抑え、なんてこともないように振る舞う。
「……スズカらしい。だが、次回以降は改めて欲しいものだな」
「ええ、これで遅刻したら迷惑だものね」
二人は通りを歩いては、目についた店に足を踏み入れた。ちょうど季節の変わり目ということもあり、店はどこもセールを開催していた。
「スズカ、今日はどういう服が欲しいんだ?」
「そうねぇ……旅行に着ていける物かしら」
「旅行? 誰かと行くのか」
「……ちょっと、これは内緒なんだけど」
前に話したでしょう? 商店街のくじ引きが当たったって。それがね、温泉旅行のペアチケットなの。だから、私、トレーナーさんを誘ってみようと思うの。ちょうど、URAのシーズンも一段落したじゃない? あの人にはお世話になったし、温泉があるってところ、景色が綺麗なんですって。走ってみたいし、それに、トレーナーさんは私につきっきりで色々と面倒を見てもらったから、恩返しをしたいの。これと服にどう関係があるって聞かれたら私もわからないんだけど、でも、せっかく旅行に行くんだし、ついでに可愛い服も欲しいなって、思ったの。
「エアグルーヴ、聞いてる?」
サイレンススズカが、いつもより早口で訥々と語る様子を見て、エアグルーヴは胸の奥がざわつく感触を覚えた。
「あ、あぁ……そうだな」
サイレンススズカは、この二年で大きく変わった。それは、常に隣におらずとも肌で感じられた。
きっと彼女は、トレーナーに好意を抱いている。それが、彼女にとっては無自覚なことだとしても、聡いエアグルーヴは気づいてしまった。おそらく、彼女のトレーナーはそれに気づいていないだろう。以前、如何にも朴念仁然としたサイレンススズカの担当トレーナーを見かけたことがある。実際に会話らしい会話をしたことはないが、直感的に、わかる。
セールの値札がついた大量の洋服が、ハンガーにかけられている。おぼつかない手つきで服を見比べるサイレンススズカを横目に、エアグルーヴはさまざまな気持ちを抱えながらも、手慣れた手つきで彼女に見合う服を探していた。
「スズカ、この服なんていいんじゃないか?」
「うーん、ちょっと試着してみましょうか」
複数の服を抱えて、サイレンススズカは試着室の中に消えていった。カーテンがシャッと音を立てて閉まった。着替えている間、少し店内の様子に目を配ってみる。
1番多いのが、一人きりの女性で、次点が友人連れと思わしき女性。時折、母娘と男女のカップルを見かけた。
(カップル、か)
おそらく、サイレンススズカのトレーナーはこういう類の店は苦手なのだろう。まぁ、彼女の性格から考えて、トレーナーを供だってショッピングというのも考え難い。でももし、二人が恋仲になったら? 彼女は私とまた休日を一緒に過ごすだろうかーー
「どうかしら」
エアグルーヴの見立てたコーディネートを着たサイレンススズカが立っていた。
「うん、似合っているな」
思わず、はっと見惚れてしまう。エアグルーヴ自身が、彼女の美しさ、可愛らしさを目一杯引き立てようと選んだ服たちは、黄金比の如く見事に調和していた。
サイレンススズカは、少し着心地慣れないというふうに、尻尾を揺らした。
「ちょうどサイズもぴったりだし、買っちゃおうかしら……」
「まだ一軒しか見ていないけどいいのか?」
「うん、エアグルーヴが見てくれた服だから、これでいいわ」
再びカーテンが閉まり、エアグルーヴは一人取り残される。
勝負服ですら、華美さよりも機能性を重んじる彼女に、このような服が受け入れられるだろうかと少し不安だったのだが、どうやらお気に召したようだ。
……あのトレーナーに同じようなコーディネートができるだろうか? 自分以外に、サイレンススズカの美しさを引き出せる人がいるだろうか?
ふと、エアグルーヴの胸の中には、サイレンススズカのトレーナーに向ける刺々しい思いが芽生えてきた。ズキン、と体の中心が歪んで痛んだ。
取られてしまうかもしれない。彼女が私を頼ることも、減るだろう。
もとより、彼女は学友同士の交流よりも、走りに傾倒していたのだ。だから、コーチングのプロであるトレーナーに指導を仰ぐことは当然である。しかし、それ以外の部分ーーお洒落であるとか、勉強などの彼の専門外の分野を、あの男に?
あれは走りに関してはプロだろうが、友人としての役割を奪われはたまったものではない。しかして、それは確定したものではない。サイレンススズカがトレーナーに好意を抱いている、というのもエアグルーヴの妄想なのだ。それに、万が一「そう」だとしても、トレーナーがサイレンススズカの思いに応えるということも確率としてはそう高くないはずだ。
全身が映る鏡の前で、エアグルーヴは無理やり笑顔を作った。いつどこでファンに見られているともわからない上に、真に迫った自分の顔を、サイレンススズカに見られるわけにはいかない。
無意識に食いしばった唇のリップが、少し色落ちしている。後で、洗面所に寄って塗り直さなければならない。
「買ってくるわね」
再び、最初の服に着替えたサイレンススズカが試着室から出てきた。エアグルーヴは、レジへ向かうその背中を見ていた。常に先頭を走る彼女の背中は、小さかった。
それから二人は、スターバックスで季節限定のフラペチーノを味わったり、戯れに本屋や雑貨屋を冷やかしたりして買い物を満喫した。
両手にいっぱい買い物袋を下げて、はしゃぐ二人は側からは仲良しの友人同士に見えただろう。実際、二人はそうだった。
「あぁ、もうそろそろ帰らないと……」
背後にはゆっくりと暗くなる夕景があった。サイレンススズカは名残惜しそうにエアグルーヴを見つめる。
「何、別に別の日に買い物くらい付き合ってやる」
「いいの?」
「ああ、スズカとならどこだっていいさ」
口に出した途端、急に恥ずかしくなった。赤くなる顔を隠すようにそっぽを向いたが、サイレンススズカはさらにエアグルーヴに接近した。
「エアグルーヴ」
「な、なんだ……?」
買い物袋の奥を弄って、サイレンススズカは小さな小袋を取り出した。
「今日のお礼。開けてみて」
「あぁ」
エアグルーヴは、慎重な手つきでそれを開封した。中身は、小さなチャームだった。
「これは……ありがとう、スズカ。大切にしよう」
「……よかった! 喜んでもらえて」
スズカの綻ぶような笑みをみて、エアグルーヴの胸は思わず締め付けられるような気持ちになった。小さな緑色のリボンのついたチャームを、割れ物を扱うような丁寧な手つきで、手持ちの鞄につけた。
「わぁ、可愛い」
「……ああ、スズカはセンスがいいな」
「エアグルーヴには、たくさんお世話になったもの。また、色々と選んで欲しいの……その、運動用じゃない水着とか、普通の靴とか」
「ああ、いくらでも付き合うぞ。スズカは私の友人、だからな」
夜、風呂上がりに徐にウマスタグラムを眺めた。エアグルーヴは、あくまで選手としてウマスタのアカウントを運営しているため、あまり試合以外の私的な部分を投稿することは少なかった。すらすらと、他の選手の投稿が流れるタイムラインを眺めていると、滅多に更新されないサイレンススズカの投稿が流れてきた。
「あ……」
サイレンススズカが、二人で一緒に飲んだフラペチーノの写真を投稿していた。
(珍しく飲み物の写真を撮っていると思ったら……)
秋の天皇賞を華々しく飾った彼女のフォロワーは、抜きん出て多かった。普段は空の写真ばかり投稿している彼女のアカウントに、珍しくそんな写真が投稿されたこともあって、コメント欄は賑わっていた。
「ふふ」
エアグルーヴはその投稿にウマいね! を押し、弾けるハートのアニメーションを眺めてさらに微笑んだ。
「大切な友達と一緒に、飲みました。おいしかったです」
ハッシュタグも何もないシンプルなコメント。スズカらしいな、とエアグルーヴはほくそ笑んだ。彼女の机の壁には、次のシーズンへの目標と、サイレンススズカからもらったチャームが飾られている。