あ、という顔をした。お互いにだった。
思わず持っていたペットボトルを落としそうになった。よくよく知っている顔だった。三年間、飽きるほど見つめた顔だった。
がつん、と殴られたような衝撃ではなかった。恋の終わりというのは、稲妻のように迅速に胸を突き刺し、遅効性の毒のようにじわじわと痛みを与えてくるものである。
脳で理解しようとも、理性が拒んだのだ。
声をかけようか、迷っている間に彼女の方から離れた。見つめあっていたのは一瞬だけだった。ほんの少し、世界がスローになって映画のワンシーンのように、景色が流れるのを瑛は感じた。音が遠くなって、何も聞こえない。静寂を切り裂くように、子供が親を呼ぶ声がした。彼女はそれを聞いて離れた。瑛は立ち止まった。それだけだった。
そうか。矢っ張り、そうだったのか。
心の中でもしかして、を期待していたのは自分だけだった、らしい。いや、人間は生きていれば考えが変わるものである。ましてや、恋を患い続けるにあたって、経過した日数というのは大きな枷である。
そうだ。もうこんな歳だったか。
以前、届いた同窓会の通知をゴミ箱に捨てたことを思い出した。以前、大学生の時に一瞬だけ交際をした女性がいたことも思い出した。
子供がいても、おかしくない歳だ。そうか、と無理矢理自分を納得させようとした。
彼女はすでに、店を出ていた。走れば、追いつける距離ではある。しかし、それは無理だ。
足よ、動けと命じたところで本能と理性が拒否するのであれば、その命令は無意味なことである。彼女が子供を車に乗せ、その車が発車するところまでをはっきりと見届けた。
邪魔だと他の客に言われるまで、おそらくそこに立っていた。
無意識に、足は海へと向かっていた。昔から、嫌なことがあると海にきていた。良い思い出も、辛い記憶も、全部海は飲み込んでくれた。
地平線の向こうから、冷たい風が体を打ちつけた。杏色の空が、ゆっくりと夜へと移り変わろうとしている。満ち潮で、浜は埋まっていた。崖に打ちつける波が、静かに泣いているように聞こえた。
ここは静かだ。
めを閉じると、光をとじた瞼の裏側に、楽しかったあの時、惹かれていながらも素直になれなかったあの時の光景が、ありありと浮かぶようだった。長い月日は、お互いの存在を忘れさせるのには十分だった。女性の恋は上書き保存、男性の恋はーーという言葉が、ふと思い起こされた。あるいは、と期待した自分が子供だったのだ。彼女の左手薬指に、小さく光る指輪というのは、瑛の好みとは全く正反対のものだった。
女は変わる生き物だという、では男は? 瑛には、彼女が全部変わってしまったようには思えなかった。髪を触る癖も、緊張した時の瞳の動きも、全部知っているものだった。
どうしてあの時、言えなかったのか。
後悔は何度もした。
それを断ち切るのには、自分はあまりにも歳を取りすぎたのだ。
こんなところにいるべきではない。
漠然とした不安が瑛の肩にのし掛かった。
こういうことが時々ある。またセンチな気分に襲われたな、と子供のような自分に呆れる。別に、珍しくない。
瑛は、築三十年近いアパートの、錆びた階段を一段一段、ゆっくりと登っていく。以前のように、駆け上がるということをしない。足がそれを忘れたのか、老人のような足取りで彼は階段を登った。
朝、同じ階の小学生が奏でるスタッカートのようなリズムではなく、ダン、ダンというゆっくりとした足音が、住宅街の中に響く。
ようやく登り切ると、ポケットから鍵を取り出し、緩慢とした調子で扉を開ける。ポス
トの中に手を突っ込んでみたが、水道代の請求書と選挙のチラシが入っているだけだっ
た。それらを靴箱の上に投げ置くと、スーツをハンガーにかけ、ネクタイを外し、食卓と呼ぶには味気ないちゃぶ台の上に、閉店前のタイムセールで購入した味だけがやけにコロッケと、申し訳程度のほうれん草のおひたしを置いた。
「いただきます」
誰に聞かせるでもなく、習慣のようにつぶやいた。前の住民が置いていったテレビをつけると、よくある低俗なバラエティ番組が映っていた。音がないと寂しい、という理由でそれを流し見ながら、美味くも不味くもない惣菜を食べていると、ふと、見慣れた光景が映し出された。
「えー、今日はですね、ここ! はばたき市に来ております!」
M1で優勝したお笑い芸人のコンビが、新はばたき駅の中にいた。
思わず、食い入るようにテレビを眺める。
中に入っていた店舗や、若干改築されたせいで数年前とは雰囲気が異なっていたが、それはまごうことなく、瑛が高校時代によく利用していた新はばたき駅そのものだった。
他はどうなっているのだろうと、若干の期待を込めて照は番組の成り行きを見守った。この番組は、地方に芸能人が赴き、さまざまなスポットを訪ねるというよくある旅番組だった。新はばたき駅から始まり、道ゆく人に地元の名所を聞き込みながら、二人はぐるぐると街を歩いていく。公園、水族館、動物園。地元の観光案内所にでも行けばわかるところばかりだな、と地元の有名スポットを自嘲的に眺める。以前より若干老朽化が進んでいるようだが、行き交う人の顔は前と変わらなかった。
番組もそろそろ終わる頃、という時。期待外れだったなとチャンネルを変えようとしたその瞬間、瑛の目に思いがけず見慣れた場所が飛び込んできた。
「最後ですけどもね、ここ。名物の灯台ですね!」
もはや、芸能人のコメントなどどうでも良かった。液晶画面の中に、かつて自分がよくいた浜辺が存在していた。芸能人の二人組は、灯台へと続く坂を登っていく。若干雑草が伸びていた。カメラは珊瑚礁があった建物を捉えたが、それは一瞬だけのことだった。
番組のシメとして、灯台から見える夕日を背景に番組は終わった。
記憶の中の光景と、全く変わっていなかった。ゆっくりと、過去の記憶が浮上する。紫と橙に染まった空と、太陽の光が海に溶けてゆく。それを、昔は愛していた。今はそれを忘れている、意図的に。
さまざまな思い出が、浜に寄せる波のように浮かんでは消えた。
プチン
気がつくと、手が無意識にリモコンの電源ボタンに触れていた。エンディングを待たずに、テレビの電源を落とした。
ゆっくりと立ち上がり、小さな冷蔵庫の中からビールを取り出した。少し力を入れてプルタブをあげると、プシュっという小気味のいい音がした。
テレビを消すと、部屋は途端に静かになる。耳をすませば、電車が通る音や、車が走る音、人が生きている音が部屋の外から聞こえてきた。
どうしてこんな日に限って、テレビを見ながら夕食を食べようなんて思ったんだろう。
窓のカーテンをめくってみても、見えるのは隣の民家の壁だけだった。
金曜の夜、久しぶりに両親から電話がかかってきた。だからこうして、土曜の朝一番の電車に乗り、かつて過ごした街へと帰ろうとしている。
高校生の時は、果てしなく遠い距離に思えたが、実際、快速電車に揺られている時間は大したことがなかった。
車窓からは、海が見えた。今の街では、海なんて見えない。せいぜい、テレビの中で見えるだけの眺めだ。水平線の高さは、前と何も変わらなかった。ああ、戻ってきたのだという実感、感傷が瑛の歩幅を早めた。
ホームに降り立つと、はばたき学園の制服を着用した男女が入れ違いに電車に乗り込んで行った。あの時と、同じ匂いがする。言葉では言い表すことができない、柔らかい土と潮が入り混じったような、妙な香り。
何年ぶりだろう。
まだ高校生だった頃、スーツケースを押して電車に乗った時から、もうだいぶ、数えきれないほどの月日が流れていた。
駅のホームで販売されていた菓子の内容は変わり、自動改札も新しくなっていた。
都市の進歩というものを感じる。
街というものは、変わらないものだと思っていたけれど、ちょっとずつ、歯車が回るような速度で変化しているのだとわかった。
以前は同級生と会わないように気をつけて歩いた繁華街も、今は堂々と歩くことができる。休日であるせいか、家族連れやカップルの姿が目立った。
あのカラオケ、まだあったのか。自動ドアに吸い込まれていくように入っていく高校生の群れが見えた。かつて、たった一度だけ、強請られて入店したことを思い出す。何を歌っただろう。あの歌は今も、歌おうと思えば歌詞を誦じることができる。なんてこともない、CMでよく使われた流行歌だった。あいつはタンバリンを叩いて、一緒になってはしゃいでいたっけ。
今は開発が進み、街の交通事情も便利になっていた。以前は自転車で移動していたところも、バスや地下鉄の開通で、自由に行き来できるようになっていた。
だが、瑛はあえて自分の足で歩くことにした。約束の時間まではまだ余裕があった。喫茶店として使われていた建物はもはや、家としての役割も果たさなくなった。瑛の両親は、以前からあの建物を売却したがっていた。買い手がついたことがこれ幸い、という様子で電話をかけてきた。
どうして自分が手続きに。そう思った。彼らには彼らなりの思惑があるのか。瑛は両親の気持ちを理解できたことなどなかった。ただ、前と同じように従ってやってきただけだ。
先方が指定したのは、小さな事務所の一角だった。差し出されたペットボトルのパッケージを眺めながら、よくわからない話を適当に聞き流した。良い時期に売れましたね、なんていう言葉は、ことの進行を遅らせるノイズでしかなかった。
委任状を手渡して、次々と出てくる書類にサインし続けた。手続きというものがここまで複雑で、面倒なことだというのを、大人になって初めて思い知らされた。
自分の思い出が、紙切れだけで他人に手渡されていく。
かつて、激しく抵抗した。その時の気持ちが、怒りの輪郭が、歳を重ねるごとにぼんやりと霞んでいく。あの時は若かった。青かったといってもよかっただろう。ただし、それは生きているという実感でもあった。固執するということは、生きる理由だということだった。
情熱。ギラギラとした鬼気迫る気持ちを持っていた、高校生の時の自分が、今の自分を見たらどう思うのか。きっと、情けないやつだと呆れるはずだ。
話など、聞いても聞かなくても同じだ。
薄ぼんやりとした気持ちで握手をして、事務所を出た。もう一秒も、ここに残っている理由はない。早く帰ろう。そんな気持ちで足は動いた。
書類の束を手渡され、急かされているわけでもないのに早足で駅まで向かった。その途中、喉が渇いて仕方がなかったのでコンビニに立ち寄った。田舎特有の、無駄にだだっ広い駐車場には、複数のワゴン車が停まっていた。
ドアを押して入ると、気怠げな店員の呼び声と、やけにテンションの高い店内ラジオの音が耳に飛びこんできた。また、それとは別に、ぴこぴこと甲高い靴の音ーー子供のものだろうーーも遠くから聞こえる。
アイスコーヒーを手に取り、ふと視線を感じた。瑛は、思わず顔をあげた。